受験勉強レポート

合格体験記    T.R
2004年慶応義塾大学環境情報学部進学
開成高校2002年卒


 巖丈志摩での1年間が終わり、僕の大学受験が終わりました。ここで、自分の受験生活を振り返ってみようと思います。

 現役時代は、トップクラスの進学校に通っていましたが、勉強が嫌いで、ほとんど勉強しませんでした。まわりの生徒たちが、遊んでいるようで、実は水面下で勉強しているのを知っていましたが、僕は水面の上でも下でも何もせず、教室のいちばん後ろの席で死んでいました。いい大学だから、みんな行くから、学力的に行けるから、という理由で東大を目指す人をおめでたいなあと思っていましたが、僕の考えも似たようなもので、将来の展望もなく、毎日を思考の堂々巡りで過ごしていました。成績が悪い分だけ僕の方がおめでたかったと思います。ああ暗い話しか出てきません、さっさといきます、勉強をはじめないまま高3の正月を迎え、センター試験で5割5分をとり、慶應環境情報学部の英語の試験のマークを全部カンで埋め、京都観光のために京都大学農学部を受け、卒業判定会議にひっかかりながらもみごと高校を卒業しました。

 1浪目は大手予備校に通っていました。1浪すればいくら僕でも勉強すると思っていましたが、甘かったようです。4月の段階ではち切れんばかりに膨らんでいたやる気は急速にしぼみ、大教室で黒板を写しながら別のことを考え、上がらない成績を見て「いつ上がるんだろうなあこれ」と他人事のように思い、夏休みは文字通り休み、秋の途中で大教室に殺人的な温度設定でヒーターが入り始め、Tシャツでいても暑さに耐えられなくなり、予備校に行かなくなりました。家で勉強するようになってからの方がまだ勉強したように思います。それでもやる気は低いまま、勉強は遅々として進まず、家に一日中いてほとんどひきこもり、思考はネガティブになる一方で、現実世界とは関係ないことについて一喜一憂していました。さらに暗い話しか出てきません、センター試験で7割をとったあと早稲田、慶應、千葉大を受けましたが全部落ちて2浪が決定しました。ここまでのことはもう思い出したくないです。はい、もう忘れました。

 さて、ここからがほんとうの受験生活である。受験勉強をしないでどうにかするという選択肢をあきらめ、心を入れ替えて2浪目に臨んだ。どうせやるなら、ということで、志望は東大理U。急に、だである調になってしまったが、この方が真面目さが出るのでよしとする。今までをこの調子で書くと、暗さが露骨に出すぎるので、避けていたのであった。  2浪目は基本的に家で勉強し、数学や英語だけ講習を受けに行く、という勉強プランを考えていたが、自分の怠け者ぶりを考えると、それでは去年の二の舞になってしまうような気がした。巖丈志摩という、家に近い少人数制予備校の存在を知り、気が進まないながらも面接に行ってみようと思ったのは、その不安からである。気が進まないというのは、もともと少人数制予備校にはいい印象を持っていなかったからである。  面接に行ってみて、予感はだいたい当たったと思った。小さい予備校にありがちな、仲良しクラブ的な、独特の雰囲気やノリを感じたのだ。そのノリにノれないと、常に疎外感を感じながら過ごすはめになるのではないか、そして自分はそういったノリにノれたという前例がない。「まわりは関係ない」というスタンスを持てない寂しがりやでもある。やはり少人数制のところはやめようか。しかし、今の自分の意見を大事にしてもしょうがない、考え方を変えなきゃとも思っていたので、とりあえず決定は保留にして、もう一回授業の詳しい説明を受けにきて、それで決めようということにした。単語テストは12点。  二回目の巖丈志摩訪問により、考えは一変した。吉江先生と話をしたことが原因である。先生が僕のような生徒の扱い方を熟知しているからだろうか、認められたような気がしてうれしかったからだろうか、そのどっちもだろうが、話していてどんどん元気になってきたのである。また、「数学では黒板をただ写すような授業はやらない、解答はテキストについてるから、授業中は話に集中していればよい」という授業法を聞いて、ノートをとるのがめんどくさくて無駄だと常々思っていた僕にはうってつけだと思った。家に帰る頃にはもう入塾した気分になっていた。

  かくして巖丈志摩生活がはじまった。入学オリエンテーションのときに、浅野先生に「君は早くこの塾に慣れることだね」と言われ、内心ビクッとした。たしかにその通りだ、と思うとともに、この予備校では隠し事は無理だ、と思った。ここではこちらのことが先生に筒抜けだ、ということ。たぶん、適当に過ごしていたらすぐに適当がバレる。  授業がはじまった。去年行っていたところと違い演習形式の授業が多いが、やることはどこへ行っても同じである。覚えるところを覚えて、問題を解けるようにする、それは変わらない。何を期待していたのか知らないが、「やっぱり、そうだよなあ」と思った。  はじまりの頃の問題は2つ。ひとつは、英語がさっぱりだったこと。己の数学が児戯に等しいことは認識していたが、英語もここまでひどいとは。志望校の関係で難しい方のクラスに入ったのだが、できなさすぎて他の生徒に迷惑じゃないかと思ったくらいだ。具体的にどう迷惑かというとわからないが。後に聞くところによると、実際ある生徒に「なんでコイツこっちのクラスにいるの?」と思われていたらしい。単語をはじめとした知識が少なすぎ、意味のとれる英文がほとんどなかった。単語を覚えるなどの地道な作業をほとんどしてこなかった報いである。大至急、単語をやらねば。  もうひとつの問題は、こちらの方が深刻なのだが、授業に集中できないということだった。授業に集中するということをここ数年間してこなかった名残か、ついつい意識が脱線したり、寝たりしてしまうのだった。この癖(癖といっていいものだろう)は意識的に直さなければ駄目だと思ったが、なかなかうまくいかない。おお集中できてるできてる、と思ったらいつのまにか寝ている。「受験一筋態勢になれていない、このままではいけない」という危機感を抱きながらも、寝る。夜の睡眠が足りていないときはともかく、十分なときでも、寝る。問題は、授業中に寝るのは非常に気持ちいい、ということだ。天国である。遠くの合格という喜びよりも、目先の気持ちよさを選択してしまっている。これでは、ほんとうに去年の二の舞である。どうしよう。

 前期の授業が終わる間近になって、去年と違いまだやる気が継続していることにほっとした。相変わらず集中力はないが、寝ることは少なくなった。そして、英語が伸びてきた。単語量が徐々に増え、英文が読めるようになってきたのである。そして、月曜日の倫理の授業が楽しみだ。倫理にこんなに時間をかけることになるとは思ってもみず、数学にもっと重点をおいた方がいいのではないかとも思ったが、予習復習をしないと話が弾まないので、必ずやってしまっていた。 ここまで精神的に僕を支えていたのは、この英語の伸びと倫理の楽しさ、現代文の出来、そして有機化学の授業である。化学は、吉江先生に勧められて今年からはじめた、予備知識ゼロの教科だが、この新しいことだらけの教科がスパイスとなって、生活全体に締まりが出たと思う。マンネリを防ぐことができたのだ。理論化学と有機化学の授業があったのだが、有機の方が断然面白く、倫理に次いで楽しみな授業だった。 夏休み前の東大模試でD判定をとり、今までDに程遠いE判定しか見たことのなかった僕は「今年はもしかしたら、いけるのではないか」と、D判定で思うのもどうかと思うが、そう思った。

ここで、僕の勉強法について書きたいと思う。僕の勉強スタンスは「意識的にやる」である。つまり、「なんとなく眺めて覚える」「反復練習しているうちになんだか出来るようになる」をできるだけ排除して、覚えるべくして覚えていく、ということだ。具体的には説明しにくいが、覚えたいことだけを覚えておくのでなく、覚えたいことを覚えた過程まで覚えておく、というのが基本かもしれない。英単語の暗記を例にとってみよう。英単語を見る、唱える、書く、隠す、暗唱、できた、時が経った、もう一回やる、忘れてる、以下「見る」から繰り返す、そのうちできるようになる、という覚え方は、かなり偶然に頼った覚え方だと思う。繰り返していればいつか脳が英語と日本語を結び付けてくれるだろう、という、他人まかせな覚え方だ(自分の脳が他人というのも変だが、実際、そう思えてしまうときも多々ある。責任逃れなのだろうか?)。僕は、とにかく英単語にいろいろな情報を張り付けまくる。そして、次にその単語を見て訳が言えなかったときは、すぐに答えを見ずにその情報を思い出そうとする。情報は、前に覚えた場所と時、文中にあった場合は周りの文の内容、その単語に持った印象、そのときに描いた絵、などである。いちばん有力な情報は、覚える際に英語と日本語の間に自分で設定したワンクッション、平たく言えばダジャレである。coward→「こわ〜」→臆病者、のようにわかりやすいもの(発音は「カウワード」に近いのでいい加減といえばいい加減だ)もあるが、fatigue→ばたんきゅ〜→疲労、のように、作った自分にしかつながりのないものもある。そうやって、遠回りでもいいから自力で英語から日本語へ到達することによって、脳が英語−日本語間にビシッと直通の回路を作るお膳立てをしてやるのだ。情報が多ければ覚える量が多いということだから余計大変なのでは、と思うかもしれないが、その貼り付けた情報たちを全て覚えている必要はないし、どっかしらからつながって覚えることができればいいのである。数打ちゃあたる、というやつだ。英語−日本語間に直通の回路ができれば、覚えるために貼り付けた、今はもう不要な情報たちのことは脳が勝手に忘れてくれるから、後始末もばっちりである。貼り付け情報は多い方がいい、だから単語の例文、対義語、類義語、派生、語源などの情報と一緒に覚えることも実に効果的なのである。ここらへんは、浅野先生の受け売りである。 暗記ものはだいたいこの方法で勉強した。暗記ものでなくても、「意識的にできるようになる」ように勉強した(詳細は省くが、基本はやはり「覚えるプロセスを重視」だ)。実はこの勉強法になったのは、積極的理由ではなく、ただ心配性なだけである。反復練習によっても覚えられるのだが、それだと、覚えたあと、それが正しいものなのか不安なのである。自分の脳の性能に自信がなかった、とも言える。この弊害が出た部分もあり、計算力は最後まで上がらなかった。半ば自動的に出した答えに自信がなく、いちいち確認してやるため、遅い。そのくせ計算ミスは多い。反復練習が足りないせいかもしれないが、それにしても上達が遅かった。 ずいぶん長くなってしまった。時系列に戻ろう。夏休みがはじまるころからだ。

夏の講習はとれるだけとった。前期はなんとか長期的にへこたれずにすんだが、まだ自分を信用できない。短期的にはへこたれたこともあるし、まだ自主的に勉強するような子に成長してはいないと踏んで、毎日のように講習を入れた。この時期に、地に足をつけて生活できたかというと、否である。1日に9時間授業があるような日は予習が追いつかなかったり、復習がおろそかになったりで、あれよあれよという間に時が経ってゆくという感じだった。授業は全部真面目に受けたが、それ以上のことはできなかった。実はあとの方にあった難関数学VCの講習のときは、頭に栄養を送るのを怠っていて、ちんぷんかんぷんになっていた。

  9月。後期の授業がはじまるまでの5日間、家に籠もって無勉という失策。口実は、「受験当日に万全な状態を作れるようにするため、今までの反省を活かし、これからの勉強プランをかなり細かく設定する」だったが、単に気が抜けただけである。結局決まった勉強プランは「授業をしっかり聴いて、穴が見つかったらすぐ埋める」という、極限にまで大雑把なものだった。後期がはじまるまでに数学Vの力を人並みにするという目標も達成されず、「9月終わるまで・・・」と先延ばしにしてしまった。

 10月は、まったく勉強に集中できなかった。「ああああ受験当日の俺、ごめん、問題解けなかったら今の俺のせいですスマンほんとスマン」とかなんとか思いながら、「ごめん」あたりは実際に口に出しながら自転車を漕いでいたりした。 心の支えであった現代文の出来が低迷し続けたことには困った。授業でやっていたセンター対策の方も、瀧田先生に個人指導で見てもらっていた東大の記述対策の方も芳しくない。現代文が得意でないとしたら一体何が得意なんだ、英語は読めるようにはなってきたが試験の点はほとんど上がっていない、数学も苦手なまま、化学はまだ人並みに程遠い、古文漢文は?至って平凡な出来だ、生物と倫理は得意かもしれないが、それだけでは試験を通ることができない。実は考えれば考えるほど望みはうすい。今年も駄目か?

 そんな状態を救ったのが11月の試験ラッシュである。防衛医大の試験にはじまり、早稲田模試、京大模試、センター模試、東大模試と、文化の日以外の全ての休日、祝日に試験があって、のらくらと考えているヒマがなかったことと、「ここで全部の模試が悪かったら、もう今年の受験も失敗決定だな」という危機感が、よかった。受験日が近づいてきて、なんとなく気分が切迫してきただけかもしれないが。ともあれ、この月は、学力がついたというより、勉強に向かう姿勢が格段によくなったという点で、重要な月だったと思う。  で、防衛医大には落ちた。学力到達度からすれば妥当だが、やはり残念。このとき、麻理さんから励ましの言葉と「努力が足りない」という言葉をいただいた。少しぎょっとした。11月、特に防衛大の試験以降は結構がんばったんだと主張したくなった、が、そんなことに意味はないとも思った。大したことなかったかも、とも思えてきた。実際、全然大したことなかった。

12月。効果的に学力を上げられたのではないかと思う。毎日勉強したことを書き出して、毎日それを確認した。つまり、毎日、12月にやった勉強を全部おさらいしたのだが、これがけっこういい手だったと思う。おさらいというのは、一日一日何をやって何を得たのかを大まかに思い浮かべるだけなのだが、これによって毎日少しずつ成長している気分を味わえ、失敗を何度も繰り返すことが減り、勉強の範囲が偏っているなと思ったらすぐ修正することができた。この方法で、授業の少ない冬期講習期間を有意義なものにすることができたと思う。ちなみにこの月の平均体温は37度であった。平熱は36度3分ほどである。体調が悪いとは感じなかったのだが、なぜ体温だけ?

 年が明けた。 「本番に弱い」という思いは始末が悪い。結果が悪かった原因を「本番に弱い」せいにして、それ以上分析しようとしなくなるからである。たとえばセンター試験で失敗して、「あー俺やっぱ本番弱いわ、これからの本試験でも本番でしくじりそうだ、どうしよどうしよ」と思っても、その思いはそれ以降の試験の出来にマイナスにはたらくことはあっても、プラスにはたらくことはない。つべこべ言ってないでさっさと本番に弱くなくなればいいのだ。どうにかして。と思っていたのだが・・・センター試験初っ端の英語は見事に緊張。意味を形成することができなくなり、英文が1センテンスも保持できなかった。読んだ先からもう何が書いてあったか覚えていない。深呼吸や瞑想などを駆使してなんとか問題を解くことはできたが、答えに確信のないマークがいっぱい。  センター試験全体では、1月にやった過去問演習のときの平均より40点悪かった。40点ですんでよかった。とにかく、私大の試験までに、精神面も強化しなければ。  試験中の主な症状は、まず、焦る。出した答えに自信がなくなる。手が震える。汗で鉛筆がすべる。本番、というミスの許されない状況で、ある程度緊張するのはしょうがないが、問題が解けないほどに緊張するとなると、今まで勉強してきた自分があまりにかわいそうである。  実は、ミスは許されなくない。数個なら誰でもするし、そこまで緊張していない模試のときでも、普段の自習でもミスはしている。それも踏まえての実力であるから、ミスがあるのをそこまで恐れることはない。ミスを恐れて実力が出せないことの方がよっぽど困りものなのである。

私大は、たくさん受けると個々の対策が大変で東大対策がおろそかになるので、理科大と早稲田2つ(教育とセンター利用の一文)だけ受けようと思っていた。が、浅野先生から「君は試験受ければ受けるほど調子が上がるからたくさん受けたら」と言われた。たくさん受けたからどこかに受かるというものではないし、行きたくない大学の対策は気が乗らないし、だいたい気持ちが分散するのでやたらめったに受験するのは得策じゃない、と思っていたのだが、結局早稲田の理工と慶應環境情報も受けることにした。先生の助言に逆らって通すほど、自分の決定の根拠に自信がなかったからであった。先生に従っていた方が安心、というやつだ。「理工は試験慣れに丁度いい日程だし、慶應は、もう2年受けてるし、ついでだ」という適当な理由を付けた。  過去問(特に英語)と、苦手分野である数学の微積の問題、そして今年度やってきた勉強を振り返る日々。勉強以外のことも一緒に振り返ってしまって一日悶絶したりもしたが。

2月5日、理科大。とても緊張し、前述した症状が全部出た。生物の試験中は、「もう埋めたところで6割くらいとれたか?(数える)んーギリギリだ、間違ってるところあったらオダブツだな、先に進むより見直しをした方がいいんじゃ?でもさっきより今の方が集中力ないし、後の方の問題は配点高いから・・・待てよ、6割じゃダメか。ええと、この大問が1個2点ずつだとすると・・・」などと、不安が募りすぎて無駄な頭の使い方をしてしまった。センター試験の次に緊張した試験だったと思う。「多分落ちた」と思って帰宅。悪い気分を引きずるのは絶対駄目だと思ったが、結局17日の午後まで、鬱鬱とした気分で過ごすことになってしまう。

11日、センター利用で東京薬科大学に合格。人生初大学合格であった。けっこううれしかった。今思えば、そんなこともあったなあという感じである。

16日、早稲田の理工。「試験で緊張しない練習」という、まるっきり捨て駒に位置づけてしまった試験であった。「うわー全然できないや、あははは」という感じだった。数学と化学が散々で100%落ちたと思ったが、英語がかなりできて「俺の英語力は本物だ」という自己暗示をかけることに成功し、精神的には上り調子の状態をつくることができた。

  次の日の17日、早稲田の一文。新しいキレイな校舎で受けることができた。(数学がないので)いちばん自信のあった試験で、今までと違い、程よい緊張感で臨むことができ、「余程のことがなければ、受かった」という気分で終えることができた。 そして理科大合格の通知。これには狂わされた。「理科大に多分落ちた高橋」として過ごしていたため、5日以降の12日間の自分を否定しなければならなくなった。「無駄に鬱鬱としやがってバカヤロー」という気分だった。ともあれ、この日の一文の出来もあいまって、一気に躁状態にまで駆け上った。

19日、早稲田の教育学部理学科生物専攻。英語がとりにくく、自信は全然なかった。最後の数学で「逆行列を掛ける」という基本解法をド忘れし、とれる問題を落としてしまった。小問も半分しかできなかった。英語は7割とれたが生物の出来が平凡だったので、これは落ちたと思った。しかし、もう凹まなかった。凹んでもいいことなどひとつもないことが身に沁みていた。「一文があるさ」という気もあったからだろうが。

 20日、慶應環境情報学部。直前に小論文対策を登坂先生にお願いしていた。これは、受験対策のためもあるが、この予備校にいて小論文の手ほどきを受けずに終わるのはもったいないと思ってのものであった。付け焼き刃なものになってしまったが、先生の厚意を無駄にしないという思いが、試験に臨む姿勢をあるべきものにさせた、と思う。本番での出来はよかったとは言えないが、とにかく時間ギリギリまで粘り、設問を全部埋めることができた。ところでこの学校、現役のときは英語で、1浪のときは数学で受けたのだが、今回は英・数で受験。英語で受けるか数学で受けるか迷ってどっちも対策したのだが、どちらがいいとも決められず、せっかく対策したのに片方を切るのがもったいなくなっての苦渋の決断であった。

残るは東大理U。国語がある分、苦手な数学の配点比が理工や教育よりも低いため、やもすれば行ける。しかし、数学の実力不足を補える十分な力が他の科目にあるかというと、ない。それぞれの科目でとれる点数の予想を何十回と立てなおし、試験日まで何の勉強をすればいちばん合格する確率が高まるかを考え続けた。結局、過去問をまんべんなくやる、という平凡な勉強プランとなったが。過去問をやって、英語が2週間前と比べて断然とれるようになっていたため、「これは、もしかすると、もしかするかも」と思ったりして、基本的に心の中は明るかった。暗くなっても、もう暗さに飽きていたのですぐやめた。 試験一日目。国語はちょっと失敗、だが数学で思った以上にできた。20点とれれば他でカバーできると思っていたので、これは嬉しかった。国語の失敗はそんなに大きくないと信じ込むことにして、理科と英語に集中することにした。 二日目。地下鉄がボヤで運行停止になっていたため、御茶ノ水駅から東大まで走った。そのためか、理科の試験中に猛烈に腹が減って目が回り、少し手前に傾いている机がさらに傾いて思え、まるで壁に紙を押し付けて書いているような感じがした。最後の英語を解いているときは楽しかった。東大の英語はいろいろなタイプの問題が並べられているので、次々と与えられた任務をクリアして先へ進んでいくタイムアタックゲームをやっている感じだった。

27日、私立の合格結果が出揃った。早慶全勝という予想だにしなかった結果であった。教育や環境情報はともかく、理工は、今考えても、おかしい。何かの陰謀だ。 東大には落ちたが、そのおかげで千葉大の後期にリベンジすることができた。後期は合格者人数が少ないので、自分の番号を見つけたときはやたらと嬉しい。最後まで頑張れたことも嬉しかった。

 ・・・さて、こんなに書くつもりはなかったのですが、長くなってしまいました。このあと、入学する学校を決めるという大仕事があるのですが、詳細は省きます。成績が上がればそれでひとまずOK、と規定した単純明快な1年は終わりました。こんな楽な年はこの先もうないと思います。いや、それは今だから言えることかもしれません、少なくとも受験勉強真っ只中の自分はいっぱいいっぱいでした。  最後に。  僕は巖丈志摩で、出会いにものすごく恵まれたと思います。一生分の出会いを使い果たしてしまったのではないかと思うほどです。底知れない温かさと、ズシッとくる厳しさに触れることができました。  先生方、麻理さん、巖丈にいた皆様、ありがとうございました。